第6回風の会展 in FIRENZE
20181113 23:01 | CATEGORY: blog | Posted by: Ryo Yoshikawa
風の会展として訪れた自身にとっては約4年ぶりのFirenzeは、
多くの事を考えさせられると同時に1年間住んでいたのが昨日の事のように感じた不思議な時間だった。今から遡ること16年、2002年に開催された 第4回フィレンツェ賞展。
新潟の雪梁舎美術館が若手作家(志望)の支援を目的とした公募展に出品し例年には無かった特別賞というのを貰った事から始まる。当日のおれは1999年に芸大の院を修了し、まさにこれからなんの後ろ楯も無いところから絵描きになるべく険しい道を
歩き出したばかりだった。当時はレストランの調理場を主に、絵画教室に絵を教えに行くバイトで食い繋ぎながら制作を続けていた。
フィレンツェ賞展の大賞受賞者は100万円の賞金と30日間のフィレンツェ研修という待遇だった。
アルバイトで貰った給料は大して高くない家賃と生活費、そして絵を描く道具を買えば何も残らない中で、
年に数枚の大作(100号程度)を描き、数万円の出品料を払って公募展に出品、落選と入選(殆ど落選)を繰り返し
なんとか絵描きへの道を閉ざさない事に必死だった。そんな中で満身創痍で挑んだフィレンツェ賞展で自身初の入選以上である特別賞に引っ掛かったわけで、
武者震いする思いで受賞式へ出掛けたのだった。
式のあとの懇親会で、その後現在に至るまで、友人であり良きライバルでもあり最も尊敬する絵描きの1人でもある
柏本龍太氏(第2回大賞受賞)と出会う事になる。(これは奇跡的な出会いだ)
ところが懇親会が終わった後、数名の受賞者が外に集められ、大賞を勝ち取った浦田氏のみが関係者と共に車に乗り込み食事へ、
残されたわれわれは「お疲れ様でした、気を付けてお帰り下さい」の一言でその場に取り残された。
内の1人の「(大賞とその他では)こんなに扱いに差があるんですね」と言う呟きは今も耳の奥に残っている。それから数ヶ月経った頃、当時のおれが何を考えて行動に移したのかは覚えていないが、再び新潟を訪れ対応してくれた事務局の方に
「貰った賞金(30万円)でイタリアへ行くので向こうの先生や学校を紹介してほしい」と直談判したのだった。
答えは「お金は出せないが紹介ならいくらでもしてあげる」というもので、
掴んだ糸がまだ繋がっている事に安堵、幾らかの興奮を覚えた。
更に数ヶ月(数週間だったか?)経ったある日アパートに
「美術館理事長のはからいで1ヶ月間のフィレンツェ研修を支援することに決定したが行きますか?」
と言うFAXが届き、いつでも行きます!と電話をしたのだった。フィレンツェ研修ののち自身の予感から、特別賞に引っ掛かった作風(ボクサーをモデルにした油絵)を捨て、
その後制作数が800点を越える事になるシルエットシリーズの1作目を描き(100号)、挨拶がてら再びフィレンツェ賞展へ出品(第5回佳作)。
この夏、日動画廊主催の昭和会展の予選を突破、同年暮れの第39回昭和会展で優秀賞に食い込む。
そして翌年9月より1年間この花の都FIRENZEに住む事になるのであった。
続く かも。