何か探し物をしている際に不意に別のものが見つかる
と言う事はないだろうか。
今から14年ほど前の2006年、ある絵画のコンペティション
で貰った個展開催の権利。
当時のおれにとって何の後ろ盾もない状況で掴み取った
チャンスだったので総力を上げて製作した小さな作品のカタログ。
そこにはひたすらに居場所を見つけようと模索する様子が記され
美術館の学芸員、美術評論家の評論文と共に英訳までされており
我ながら良い内容だった。
2006年といえば、それまでにいくつかのコンペティションで
何らかの受賞はしていたものの、直前には1年間のイタリア留学と言う
充実した日々も終わりさてこれからどうやって日本で絵描きになれば
良いのものか と空中で手足をバタつかせていた頃だった。
そしてこの個展も開催してくれた画廊の方々、搬入搬出を手伝ってくれた友人、
足を運んで下さった方々、作品紹介や評論をウェブサイトで公開したりと
尽力してくれた人も居たものの結果絵は1枚も売れる事はなく
まるで無かったことの様に忘れ去られていく事になる。
(大変申し訳ありませんでした)
一体おれは何をしていたのか
と思いながら読み直してみると学芸員の方の文には 存在のリアリティ に
ついて、評論家の方の文には 諦めかけた世界の中に見える希望 と言う
様な事が書かれており、当時自身に問いかけ続けていた内容が正確に
記されていた。
当時の絵を見た人からは 寂しさ や 孤独 を感じると言われ、
この10年余りの間にそれは少しづつ消えて行き、色に溢れ絵の空気は優しく
なった事は自覚している。
何に対してそんなに怒っているのか と問われた事もあるほどに
何かに対して苛立っていた気がするけれども、
それは全て自身に対しての葛藤だったとすれば全ての説明がつく。
そしてこの10数年の間に自身に対しての苛立ちや失望が減り
代わってそこに見出した希望の割合が増えてきた結果が今の絵に表れている
と言う事だ。
1枚の絵の出来が良いとか悪いとか売れたとか売れないとか
それはどうでも良いことでは無いけれど、
これまでの、そしてこれからの長い間に何を見てどう変わっていくか
それをどう伝えるか、
これこそが絵描きとして生きる中で最も重要な事だと思っているので、
忘れた頃に見返した過去の自分にリアリティを感じられた事は
安堵と危機感を同時に見せられた様な気がした。
これからもそうして描き続けて行くであろうし、
その過程は決して 考え過ぎ などと言う事は無いのだよ。