ENGINE

車雑誌のENGINEの中で

時計特集があり、アートと時計の”響宴”と言うコーナーで

ワタクシの「あとかた」がHYT H0(エイチゼロ)オールージュリミテッド

と言うモデルとのコラボレーションが実現しました。

共通のテーマは時の流れと水(液体)。

私の絵は1点物(サイズF10)であるが、この時計は日本限定8本だそう。

お値段も私のこの絵の10倍はする(笑)

とは言え、広い世界の中で似た場所を目指してものを作っている者

の一瞬の出会いはなんとも魅力的だ。

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留学時代

憧れの花の都は最初から楽園だった訳もなく、まずは長期滞在するにあたって数々の掟を覚える必要があった。

イタリアにいる日本人のおれに道でいきなりニコニコ話しかけてくる外国人はだいたい財布を狙っているとか、

1日に2つの約束をいれてはいけないとか、朝から律儀に順番を守っていると夕方になっちゃうとか、
目を見て大きな声で話さないと相手が呆れてどっか行っちゃうとか、1年間同じ自転車を乗っているヤツは珍しいとか。
結局中古で手に入れた自転車には本体よりも高い鍵を付けてアパートの中まで持って入る徹底ぶりで1年間乗り続けたけど、
帰国時にあげた翌日盗まれたとか。
ネガティブなことを列挙するのは色々不自由な環境でポジティブに生活していく為の防御策だったのだ。
今思えばもっと気楽に行ければ良かったんだけど、なんせギラギラした目で勝ち取った国費留学の派遣だったから、
正直そんな余裕はなかったんだろうなぁ。

勉強の方も問題山積みで、語学学校やらアパートの契約(結局これは1人でやった)

から絵を描く環境作りから沢山の人の助けを借りてなんとかスタートラインに立ったのだ。
でも日本から送った画材も冬服も届く気配がなかったけど。

フィレンツェへ行く前に、留学先を探す為にニューヨークとロンドンを訪れて居たのだけれど、

最終的にフィレンツェを選んで留学試験にエントリーした理由は日本との共通点と圧倒的な差を同時に見いだしたからだった。

その内の1つは暮らしのスタイル。
家具、美術品、楽器、革細工など様々な職人がいる街で、住居は長屋(フィレンツェで戸建は珍しい)、

絶対的な地元愛を誇りにし、人との距離が近く挨拶は基本。そうかと思えば本当の仲間以外は1線を画す面もあり、
都って自然とこういう風になるのかな、と思ったのだった。
そんなところで絵描き志望の青年が何をするべきか!?アルノ川の畔で途方に暮れる訳にもいかず、
まずはここの暮らし振りに溶け込む事を目標に、食事から道の歩き方まで真似をしてみたりした。
毎日エスプレッソとパンとパスタと肉とワイン。時々ジェラート。
お陰で大して飲めなかったアルコールはワイン1本位は空く程度には楽しめる様に。
イタリア語はと言うと、アパートの契約時には電子辞書を片手に必死だったけど、
語学学校へ通い3ヶ月が過ぎる頃には毎日の買い物や切符を買って列車で各地へ出かけるのには苦労しない程度には慣れたのだ。

この間に出会った友人達とはその後長い付き合いになるのです。
そしてこの頃やっと画材が届き(とっくに諦めて現地調達してた)、相変わらず冬服は届かないままの12月のフィレンツェだった。

続く のか?

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最初の研修で訪れたFIRENZE  以下当時描いたスケッチ。
019
研修の帰りに寄ったMILANO
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PISA
016
FIRENZE
034
SAN MARINO
035
SICILIA   TAORMINA
044
PERUGIA
045
LUCCA

 

第6回風の会展 in FIRENZE

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風の会展として訪れた自身にとっては約4年ぶりのFirenzeは、
多くの事を考えさせられると同時に1年間住んでいたのが昨日の事のように感じた不思議な時間だった。今から遡ること16年、2002年に開催された 第4回フィレンツェ賞展。
新潟の雪梁舎美術館が若手作家(志望)の支援を目的とした公募展に出品し例年には無かった特別賞というのを貰った事から始まる。当日のおれは1999年に芸大の院を修了し、まさにこれからなんの後ろ楯も無いところから絵描きになるべく険しい道を
歩き出したばかりだった。当時はレストランの調理場を主に、絵画教室に絵を教えに行くバイトで食い繋ぎながら制作を続けていた。
フィレンツェ賞展の大賞受賞者は100万円の賞金と30日間のフィレンツェ研修という待遇だった。
アルバイトで貰った給料は大して高くない家賃と生活費、そして絵を描く道具を買えば何も残らない中で、
年に数枚の大作(100号程度)を描き、数万円の出品料を払って公募展に出品、落選と入選(殆ど落選)を繰り返し
なんとか絵描きへの道を閉ざさない事に必死だった。そんな中で満身創痍で挑んだフィレンツェ賞展で自身初の入選以上である特別賞に引っ掛かったわけで、
武者震いする思いで受賞式へ出掛けたのだった。
式のあとの懇親会で、その後現在に至るまで、友人であり良きライバルでもあり最も尊敬する絵描きの1人でもある
柏本龍太氏(第2回大賞受賞)と出会う事になる。(これは奇跡的な出会いだ)
ところが懇親会が終わった後、数名の受賞者が外に集められ、大賞を勝ち取った浦田氏のみが関係者と共に車に乗り込み食事へ、
残されたわれわれは「お疲れ様でした、気を付けてお帰り下さい」の一言でその場に取り残された。
内の1人の「(大賞とその他では)こんなに扱いに差があるんですね」と言う呟きは今も耳の奥に残っている。それから数ヶ月経った頃、当時のおれが何を考えて行動に移したのかは覚えていないが、再び新潟を訪れ対応してくれた事務局の方に
「貰った賞金(30万円)でイタリアへ行くので向こうの先生や学校を紹介してほしい」と直談判したのだった。
答えは「お金は出せないが紹介ならいくらでもしてあげる」というもので、
掴んだ糸がまだ繋がっている事に安堵、幾らかの興奮を覚えた。
更に数ヶ月(数週間だったか?)経ったある日アパートに
「美術館理事長のはからいで1ヶ月間のフィレンツェ研修を支援することに決定したが行きますか?」
と言うFAXが届き、いつでも行きます!と電話をしたのだった。フィレンツェ研修ののち自身の予感から、特別賞に引っ掛かった作風(ボクサーをモデルにした油絵)を捨て、
その後制作数が800点を越える事になるシルエットシリーズの1作目を描き(100号)、挨拶がてら再びフィレンツェ賞展へ出品(第5回佳作)。
この夏、日動画廊主催の昭和会展の予選を突破、同年暮れの第39回昭和会展で優秀賞に食い込む。
そして翌年9月より1年間この花の都FIRENZEに住む事になるのであった。
続く かも。

 



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