Exhibition in Paris

https://www.nichido-garo.co.jp/paris/2019/06/ryo_yoshikawa_1.html

 

My solo exhibition starts from 5 June to 20 July 2019.

I’m going to stay in Paris until 12 June.

 

来週からの個展の準備はあとサインをいれて撮影をするのみ

と言うところまできました。

毎回デッドラインまで少しの余裕をもって仕上がるのはホッとします。

あとは今後の制作に向けてのアイディアを描き留めることにします。

時々アメリカやイスラエルなど海外の方から、

パリでの個展を数年前にみたんだけどまたやらないのか?とか

ホームページに出ている絵を見たいんだけどどこにある?とか

メールを頂くので、練習中の拙い英文を載せています。

前置詞の使い方など間違いがあったら修正しますので

ご指摘いただけると助かります。

 

 

 

 

 

 

CDG48

パリで48歳を迎えました。

今なお絵を描いて暮らせること、
そして何時も味方でいてくれる家族があること、
友人達や仕事仲間、支えてくれる人達がいることに
感謝しています。

 

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これは4年前の今頃、

今は亡き大好きな友人が連れて行ってくれた

思い出深い場所。

 

先駆者と継ぐ者たち

先ずはこれをご覧ください。

大佛廻国

https://www.daibutsukaikoku.com/

 

ここにある通り、日本の映画の技術で 特撮 というのがあり、

世界の映画ファンの間でも数々の作品が高い評価を受けているそうだ。

フランスでも トクサツ で通じる。

さて、今回いろいろな縁が繋がってこの 大佛廻国 の上映会

に行ってきた。

監督の横川氏は東京藝大の彫刻家修士課程を数年前に修了された

という方で、話をしていると私と同じく3年浪人の末の入学、

しかも予備校も同じだったと判明。

ああ、浪人後の予備校にまつわる忌まわしき記憶が新たな色で塗り替えられていく!(笑)

 

そして上映会の後の打ち上げで、この映画が初の監督作だと言う

氏に色々と話を聞いたのだけれど、

「あの場面にそんな意味が込められているんですね!もう少し伝わりやすくなったらいいのに」

「いやぁ、伝わらなくても良いかな、と思っちゃうんです」

「あー、解ります」

というあるある話と共にビールを飲みかわし、

翌日からカンヌ、ロンドン、デュッセルドルフへ行くという彼と別れた。

 

幻の映画誕生から特撮映画の名作を経て、様々な角度からそれに纏わる人々が

新たな道を繋ぎ歩こうとしている。

そんな場面に立ち会えたのがとても嬉しいという1日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

願いの行方

その後ノートルダム大聖堂の塔のデザインコンペのニュースは

目にしないが、これまでの在り方とこれからの在り方

を考えるという意味ではとても興味深く、

先日友人から お前の案も見たい と言われた。

私は建築は全くの素人なのでその場では茶化してしまったが、

在り方の願いとしては形にしても良いのではないかと思い

スケッチをしてみた。

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水彩紙にアクリル 縦33㎝程

大聖堂の正面には薔薇の窓と呼ばれるステンドグラスが配置され

内側からは荘厳な美しさの光が見える。

ローマカトリック教会の作りは、外側は質素に、内側にステンドグラスの光

や絵画、彫刻などを配しているとのことなので、

その考え方に準じているかは不勉強だけれど、

個人の望みとしては 内側から外側へ光を放ち人々の心を照らす

という形になればいいと思いこのスケッチを描いた。

派手な光じゃなくて、ステンドグラスを内側から照らしたような

そして本当は、1つの宗教に限らず世界を照らす柔らかい光がいい。

さてどうなるか。。。

 

 

 

 

アーティストの思考回路

パリの街の中心地に新しい美術館が建設中であるらしい。

元商品取引所であった場所に作られるその美術館のデザインは

フランスきっての大富豪フランソワ・ピノー氏の指名で

日本の建築家、安藤忠雄氏が担当しているとのこと。

安藤氏をはじめ今や日本の建築家のフランスでの活躍は目覚ましいらしい。

 

ピノー氏といえば、

火災による崩壊でパリ市民に多大な精神的ダメージを与えたノートルダム大聖堂の

塔の損失後、再建に際し100億とか200億とか(円換算)の寄付を

申し出た方でもある。

たかが建物にそんな金出すなら我々にもなんとかしろ という

一般市民の不満(これもデモの勢いを煽っている)が大きくなるばかりのタイミングで

全く別のことが進んでいるのもまた事実なのだ。

 

失ったものは元には戻らない。

ではそのあとをどうするか。

この塔は過去に再建されている歴史があるが再びその機会が

訪れた今回、建築家というアーティストは次の事

にいち早く着手し始めている。

次のデザインをどうするか? 誰が建てるのか?

早くもコンペティションが開かれ、元の姿を復元する保守派と

これからの象徴としてのデザインを推す改革派(?)の案が賛否両論の

火花を散らしている とニュースになっている。

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これは数年前に私がとった写真

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これらはネットからの画像なので荒れていますが

コンペにエントリーされている一部のデザイン。

その他屋根の部分をガラス張りにして内側を温室のように

植物を植える案などもニュースでは紹介されていた。

いづれにしてもネガティヴなことをポジティヴにとらえるアーティスト

がいるのも事実なのだ。

 

そして実はここからが本題で、

アーティスト=変わった人

というイメージが多かれ少なかれあろうと思うのだが、

当人はそんなことは全くもってどうでもよく、気付こうともしないので

たぶん私自身にも当てはまることは数多あるとおもうが、

端から見ると不思議というかやはり変わっているというか。。。

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ご覧いただけたであろうか・・・。

そう、これは紛れもなく炊飯器の内釜である。

10年ほど前に初めてパリのアトリエに来た時には既にこの状態

だったと記憶している。そしてこのアトリエは日本人しか使ってないはず。

大量の油絵具を溶く必要に迫られたアーティストがその瞬間に選んだ

その目的を叶える物がこれだったのである。

こんな大きさの容器1€か2€で買えるだろ と思うのは正常な人の思考。

自分のものなのか、たまたまあったものなのか、それは知る由もないが

この状態で今も使われ続けている。私は今回は水入れとして使っているが、

確かに外側だけの 炊飯器 が棚の奥に仕舞われている(笑)

 

要するに、頭の中で常に考えているなにがしかが

形になって目の前に現れる予感がした瞬間に、

それに必要なものに手を伸ばすというのはごく自然な事なのだ。

それが本来どんな目的で作られたものであってもそんなことは

もはや関係ないのである。

そして作り出したものがどうだったかと言うこともまた

もはやどうでもよく、その衝動を感じられるか否か、

アーティストの存在意義はその一点に尽きる というのは

我々の抱く幻想の世界の話なので、結局は 変わった人 という事になる。

 

現代アート(コンテンポラリーアート)の歴史には

本来作られた目的以外の事をそのものに与える事

いうのが表現の一つになっている向きもある。

これについて話すと変人になりそうなので割愛するが、

まぁ 小便器 を床に置いたような レディメイド という名の

ゴミの一種だと思っている。(好きですけど)

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春は?

こちらに来て2週間と少しが過ぎた。

着いた日はなんと27度もあり夏のような陽気だったのに

この1週間は朝5℃昼間でも15℃、日差しが出たと思ったら

急な雨風を繰り返している。

日曜日の朝に蚤の市へ出かけたときなんか息は白いし耳が痛い(笑)

時々近所の店へで出て食材やら日用品を買い、

パンとパスタ(スパゲッティとブジッリ)と肉、たまに野菜

を料理しては絵を描き、ギターを弾き、お勉強をし、酒を飲む

安定のスタイルを貫いている。

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豚肉と鶏肉は安くてとても美味い。

そしてこのパリブレストという伝統的お菓子はものすごく美味い。

 

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散らかりっぷりも格好もなんかの工事してる人みたいだが

絵は進んでいるので大丈夫だ。

しかしいつ暖かくなるんだろうか。。。

 

 

 

変わること

8年か9年前に初めてパリへ来た頃はこんな絵を描いていた。

前の方が良かったと評価を失う可能性はあるが、

変わることの恐怖より、変わらないことの恐怖の方が大きい。

評価にしがみつき自身の向上心を失くせば目指している道を

失くすのも同じだと思うから。

向かい風が好きな訳では決してないが、そういう道を歩こうとしている。

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これまでは人や景色の形を 影 として捉えていた。

光によって照らし出された形がシルエットとなって浮かび上がるという表現は

外に光があることを前提としての景色だ。

光によって照らし出された絵の中の形が現実の景色と重なって見えた時

何を思うか というのがテーマの主だった。

今描いている絵を眺めていて気付いたことは、

生きものの形を 光 として捉えていることだ。

光の源を生命とし、それを浮き上がらせる空間を現実の世界として捉えている。

存在するということが 照らし出される側から照らしだす側へと移行したような気がしている。

人の手によって生み出されることと人の手によって奪い去られることと

どちらが多いのか考えたこともないが、その繰り返しの中で生きている。

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自身にとっての原風景とは、油に濡れた虹色のアスファルト ではなく

全てを吸い込む艶のない土と草の香りなのだ。

そしてそこから新たな命が生み出される。

これを技法で表すならば、染み込むベースを和紙として

表層の艶をなるべく抑え、滲みのできる水を溶剤とした絵の具を用いることが

良い方法だとおもう。

あとは描いた絵が良いかどうか、これが大きな問題だ。

 

 

 

 



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