8年か9年前に初めてパリへ来た頃はこんな絵を描いていた。
前の方が良かったと評価を失う可能性はあるが、
変わることの恐怖より、変わらないことの恐怖の方が大きい。
評価にしがみつき自身の向上心を失くせば目指している道を
失くすのも同じだと思うから。
向かい風が好きな訳では決してないが、そういう道を歩こうとしている。
これまでは人や景色の形を 影 として捉えていた。
光によって照らし出された形がシルエットとなって浮かび上がるという表現は
外に光があることを前提としての景色だ。
光によって照らし出された絵の中の形が現実の景色と重なって見えた時
何を思うか というのがテーマの主だった。
今描いている絵を眺めていて気付いたことは、
生きものの形を 光 として捉えていることだ。
光の源を生命とし、それを浮き上がらせる空間を現実の世界として捉えている。
存在するということが 照らし出される側から照らしだす側へと移行したような気がしている。
人の手によって生み出されることと人の手によって奪い去られることと
どちらが多いのか考えたこともないが、その繰り返しの中で生きている。
自身にとっての原風景とは、油に濡れた虹色のアスファルト ではなく
全てを吸い込む艶のない土と草の香りなのだ。
そしてそこから新たな命が生み出される。
これを技法で表すならば、染み込むベースを和紙として
表層の艶をなるべく抑え、滲みのできる水を溶剤とした絵の具を用いることが
良い方法だとおもう。
あとは描いた絵が良いかどうか、これが大きな問題だ。