縦70数センチの水彩スケッチ 無題
昭和の約1/3と平成を30年程生き延び、
その間にいろんなものの滅びゆく場面を目撃する事に
なる。
時代の移り変わりや世代交代は常に繰り返されて来たので、
取り立てて珍しい事ではないのかも知れないけれど、
ワタクシがティーンネイジャーだった頃、箱型テレビが姿を消すとか
子供までもが携帯端末を持つとか家に居ながら24時間世界中で買い物が
出来るとか、想像もできなかった。
想像できていたらきっと絵かきになんかならなかっただろうけれど。
創造という面でも、美術や音楽に限らず、
独自の世界観を思い描きそれを伝えるための人の手による正確な技術
というのがあたかも 不要であるが如く 作られているモノも多く目にする。
これはもう根底の定義が違うのでどうしようもないし、これもまた道ではある。
正確な技術 だけ というのもまた寂しいもので、おおもとの世界観が出来合い
のものだったりするともう何とも言えない気持ちになるのです。
人が作ったものはいづれ滅び、また新たな価値観が作られていく運命にあるので
それを悲観している訳ではなく、我々の生きた時代と自身が愛したモノ達の最後を
見届けながらこの先を生きていけると言うのはなかなか感慨深いものがあると思うのです。
そんな中で、特に望まれも頼まれもしないモノを作って生きていこうとしているワタクシに
何が残せるのか?何を残すべきか?と言う問いにどう答えれば良いのか・・・。
これまであった価値観に何がしかモノ申す事を含めて投げかけとか問題提起をしたい
と思っているので、画に向かうときは大抵機嫌が良くないが、
彼方より継いだモノ造り精神を次世代にも継ぐ覚悟のあるヤツがいて欲しいなと思う
この頃です。
この度日動画廊にて さくらと富士 と言うタイトルでグループ展が開催され、
出品する絵を納めに行ってきた。
実は昨年にもこのテーマでの制作依頼が来ていたのだけれど、
余りにも象徴的すぎるモチーフと余りにも多くの人によって描かれている対象であり、
描く理由が見つからなかったので辞退したい旨申し入れた経緯がある。
昨年初めまでの10数年は、真冬のニューヨークだとか真夏のサンディエゴだとかが
きっかけとなった、景色をシルエットで捉えたスタイルを続けてきた。
アーティストにとってオリジナルのスタイルを手に入れると言うことがどれだけ難しく、
また誇らしいことかは言うまでもないが、それには多少なりとも犠牲が伴う。
視点や世界観を一極集中させることで明快な答えを導き出すと言うことは、
対象やテクニックを制限する必要があり、ある意味それ以上に発展する可能性をも
狭めてしまうと言うことと隣り合わせの状態なのだ。
その危険な状態は覚悟の上で 自分ならではの道 を手に入れるべく、
生まれや育った環境を含め自身の現在と過去を俯瞰して、何を選択して来たのか、
何を落として来たのか、結果どこにいるのか、そして今何を描くべきなのか?
数年間に及ぶ自問自答の挙句引きずり出した答えを命綱に、完成作だけ数えても800点余り、
スケッチなども含めれば1000点以上を描く間に、次の道 へのアンテナは確実に張り巡らされていたのだ。
今回描いた桜と富士は、
散ってしまった後の姿までをも愛でたり、
山の反対側へ行ってもまだなお自国と言うくらいのスケールではあるものの、
人の生き方や心情に例えられる様なその姿を何処か心の支えにすると言う
日本人のメンタリティを描いてみようと思い至りその結果出来上がった絵なのです。
感想は、桜は描くなら(描かなかった別の理由はまた)花筏と思っていたので
割と迷うことなく辿り着けたと思うが、
富士はどう描いたって富士にしかならず、足掻いた挙句 今の自分の生き方らしい
ソリッドな富士になったと思うが、どちらも次に描くなら100号くらいのサイズでやりたい。
−彼方より 彼方へ− F20
−Fuji− F8
同じタイトルで幾つか絵を描くことは良くあることだけど、
使う道具によって内容も効果も目的も違ってくる。
上の画像は縦50cm程の水彩画だ。
かつて誰かが座っていた と言う雰囲気を残すために
あえて質感描写はしないで完成した。
また、、窓の外の景色は省略し、テーマの主である
光に焦点を絞った絵にした。
写真を写していたらこう言う絵は出来上がらない。
この絵が出来たのは、透明水彩の重なりと紙の特徴によるもの
だと思うので、
他の画材で同じことをするのは難しいだろうと思う。
光のありか F10
森の鼓動 F20
昨年の暮れから少しずつ炙り出してきた2019年の制作テーマは
解放。
対象からの解放 と 自ら課してきた制限の解放。
対象からの解放とは、モチーフに頼り切らない作画アプローチで、
要するに 目に見えるもの を描かずに 目に見えないもの を見せられるか
という挑戦。
本格的に絵の勉強を始めた19歳の頃から、いわゆる写実絵画というのに
傾倒してきた過去があるのでおれにとっては青天の霹靂くらい混乱する。
従って、たった1ヶ月過ぎたくらいではどーにもならない。
もう一つの 自ら課してきた制限 というのはモチーフ選びの段階で、
これまで長いこと、誰が見ても美しいもの、場所、を避けて描いてきた。
富士山とか薔薇とか女とか。。。
もう今更おれが描かなくったって仕上がってる と思うから。
なぜそれを解放しようとしているかと言えば、
それはまたの機会に書くことにして、
まずは今月末から福山天満屋で開催されるグループ展に出展するための
絵を載せることにします。
光のありか は水彩画で描こうとしていたものをキャンバスでやってみた。
今年のテーマとは逆行する内容に苦戦したけれど、なんとか落ち着いた。
森の鼓動 は昨年より多発している鹿がモチーフの絵。
なぜ鹿かと言うと、深い意味はなく割と身近な野生動物でフォームが美しい
と言う理由で登場する。
自然界に生きる厳しさと命の尊さがテーマの絵です。
そしてそれを見る人間の内面を映し出す絵でもあるのです。