絵を描く理由

この度日動画廊にて  さくらと富士  と言うタイトルでグループ展が開催され、

出品する絵を納めに行ってきた。

実は昨年にもこのテーマでの制作依頼が来ていたのだけれど、

余りにも象徴的すぎるモチーフと余りにも多くの人によって描かれている対象であり、

描く理由が見つからなかったので辞退したい旨申し入れた経緯がある。

 

昨年初めまでの10数年は、真冬のニューヨークだとか真夏のサンディエゴだとかが

きっかけとなった、景色をシルエットで捉えたスタイルを続けてきた。

 

アーティストにとってオリジナルのスタイルを手に入れると言うことがどれだけ難しく、

また誇らしいことかは言うまでもないが、それには多少なりとも犠牲が伴う。

視点や世界観を一極集中させることで明快な答えを導き出すと言うことは、

対象やテクニックを制限する必要があり、ある意味それ以上に発展する可能性をも

狭めてしまうと言うことと隣り合わせの状態なのだ。

その危険な状態は覚悟の上で 自分ならではの道 を手に入れるべく、

生まれや育った環境を含め自身の現在と過去を俯瞰して、何を選択して来たのか、

何を落として来たのか、結果どこにいるのか、そして今何を描くべきなのか?

数年間に及ぶ自問自答の挙句引きずり出した答えを命綱に、完成作だけ数えても800点余り、

スケッチなども含めれば1000点以上を描く間に、次の道 へのアンテナは確実に張り巡らされていたのだ。

 

今回描いた桜と富士は、

散ってしまった後の姿までをも愛でたり、

山の反対側へ行ってもまだなお自国と言うくらいのスケールではあるものの、

人の生き方や心情に例えられる様なその姿を何処か心の支えにすると言う

日本人のメンタリティを描いてみようと思い至りその結果出来上がった絵なのです。

 

感想は、桜は描くなら(描かなかった別の理由はまた)花筏と思っていたので

割と迷うことなく辿り着けたと思うが、

富士はどう描いたって富士にしかならず、足掻いた挙句 今の自分の生き方らしい

ソリッドな富士になったと思うが、どちらも次に描くなら100号くらいのサイズでやりたい。

F20 彼方より、彼方へ 2019

−彼方より 彼方へ−            F20

F8 FUJI 2019

−Fuji−                     F8

 



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